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御由緒

主祭神:菊理姫命(くくりひめのみこと)・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)

配神:建渟河別命(たけぬなかわわけのみこと)・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)

鎮座地:〒三五〇-〇二一二 埼玉県坂戸市大字石井二二六番地

摂末社:

◯江戸からの末社

稲荷社・八幡社・春日社・天満宮・牛頭天王社

◯明四十一年九月十七日に合祀された末社

並木神社・三社明神社・愛宕神社・鹿島神社・六所神社

熊野神社・厳島神社・天神社・稲荷社三宇・神明社四宇

例祭:三月十五日(現在は、三月十五日付近の日曜日)

 

 

御社紋:加賀梅鉢(幼剣梅鉢)花芯に短小な剣を加えたもの

 

社宝:

社号額 正二位 麝香間祗候 大原重徳卿揮毫

社号額 帝室技芸員鈴木嘉幸作・日本赤十字社初代社長佐野常民題字揮毫

由緒:第第六十五代花山天皇の御代、寛和二年(九八六)、加賀国一の宮の白山比咩神社の

御霊を勧請し創建されたことによるもので、主祭神として菊理姫命・伊邪那岐命・伊邪那美命

を、配神として建渟河別命・豊城入彦命を奉斎します。

 その後、平安時代後期、鎮守府将軍として奥州の逆徒追討に向かった八幡太郎の通称でも知

られる、武門の誉れ高き武将『源義家』は、建渟河別命の故事に倣い、当社に参拝して戦勝を

祈願したところ、霊験大いにあり、後三年の役終結(一〇八七)の後、凱旋の折に報賽し社領

を定められました。

 鎌倉時代になると武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏は、『吾妻鏡』にその名を残す

ほどの勢力となっていました。とりわけ『須黒太郎恒高』は、当社を氏神として厚く信仰し、

社領を加増するとともに、健保九年(一二一三)に社殿を再営して『強い神』として尊崇し、

社号を勝呂白山権現に改めました。

 江戸時代においては、寛永十九年(一六八一)に御社殿が再建され、その七年後、慶安二年

(一六四九)には、三代将軍家光公から五石の朱印状を受け、以後代々の将軍家より社領を賜

わるとともに、古河領及び地頭から、それぞれ『玄米一石永七五文供米一俵』が毎年祭祀料と

して寄進されました。更に延宝九年(一六八一)には、郷人すべての崇敬の志を集めて立派な

本殿の造営(現存の本殿)がなされています。

 明治時代に入ると社号を白山神社と改め、勝呂村の指定村社に列せられました。明治四十一

年(一九〇八)には地内の無格社十五社を合祀したのを機に、社号も古来の地名をとり『勝呂

神社』とし、勝呂郷総鎮守として現在に至っています。

信仰:白山比咩大神とも呼ばれ、『はくさんさま』の呼称で里人に親しまれている菊理姫命は、縁

結び、安産の神・水利の神、更には病気平癒の神としての信仰を集めています。

 また、建渟河別命は、東海道将軍であり、殊のほか強い神です。その大いなる霊験により『勝

負の神』としての信仰を集めています。  ※社殿の東側に『勝運霊石』があります。

 これら、当社に祀るすべての神々を尊称して『勝呂太神』と申します。

 

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